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2009年4月

2009/04/24

言いたくてうずうず・・・時事ネタはもっと面白くならないのか!!

最近ネットニュースで盛り上がった話がでたが、クサナギ強が裸になってどうのこうのだと・・・・はっきり言って・・・・
ほんと、どうでもいいよね。。。>⊿<;;

興味が全然沸かなくて、すいません。。。。。

というかこれを機に不満を爆発させてしまうのですが、長期海外滞在からの帰国時の最大のショックは日本のマスメディアのレベルの低さについて・・・。

アメリカのテレビ番組の数は100チャンネル以上。
ABC、NBC、FOXなどの大手チャンネル以外に、それぞれが専門家されていて、
お馴染みの音楽プロモーションビデオのみを放映するMTV、
天気予報だけを24時間流し続けるウェザーチャンネル、
TVショッピングだけを流し続ける番組、大人の趣味講座だけを流す番組、
ドラマだけを流し続ける番組・・・と、数多くある。

帰国したのはバブル崩壊後であったが、日本の国民の大半が情報源とするTV番組の質の低さに驚いたものだった。ほとんど一律といっていいほどタレント・芸能人がでてきてナビゲート。
特に民放のバラエティ番組では粗雑な言葉を連発するタレントが我が物顔でTVに向かってけなしあいや貶めあいの会話を延々と繰り返し笑う見物客。。。
特にお正月番組には必ず水着の女性が出てきてきわどく露骨なシーンを演出するのも、さすがに近年TV局に老齢者から苦情が寄せられ若干改善されたとは言え、ネタとしては後を絶たない。

そういった動物的・瞬間的刺激を垂れ流すバラエティ番組が家族の集うゴールデンアワーを占領しており、当時学校のクラスメイトがそういった番組で話に興じているのをみると、将来の世代となる若者が少しづつ情報隔離された平和な世界で骨抜きにされているように思えた。

その傍ら、いわゆるまじめなニュース番組にも不満があった。

時事問題や政治、経済に関してはNHKなどで生真面目な報道は見るものの、多角的な見方ではなく通り一遍の報告のように思えた。何の抑揚もないしゃべりかた。どうしてあんなお坊さんのお経のような喋り方なのか。。。。

政治については専門用語を並べた杓子定規のもので、理解させようとするよりも義務を果たすための単調で簡素な報告。また、憲法改正など重要な問題についてはどうでもいい動物ネタのニュースなどの裏に隠れたりして、事の優先順位を見誤っているのではないかと思われる報道順位であるのも危惧の念を抱く。

これから社会に関心を持ち始める学生にはその通り一遍の報告書的な情報をもとに、社会がどういうものかを自分の身に置き換えて知る情報源としては不十分だった。

日本のマスメディアで働く人材の質が低いのか、それとも意図的に自立性や社会参加への積極性を奪っているとしか思えないようなB級ネタ集めの番組だらけで自分の頭の中に無意識的にも日々刷り込まれていく情報がおかしなことになっていることに気づかないほど国民の感覚が麻痺しているのか。

このままこんな情報環境の中にいては本当に重要な世界の動きが見えなくなる、脆弱で見せかけの平和に彩られた国で自らが虚構の世界を彷徨することになる、と危惧した。

アメリカは、日本より見苦しい娯楽番組は存在しているが、選択肢が多いのが幸いし、自ら比較検討できる余地がある。全体から俯瞰できるのだ。

また、人口も多く合衆国ならではの政治への参加度が高いお国柄もあってか、思想色の強いマスメディアが世間を一色に席巻していない。

と、まぁここまで日本のマスメディアに当時受けたショックをぶちまけてきたが、最近はそういった日本の新聞やメディア勢力図のあり方が少しずつ変わってきているのも
事実だ。

まず、思想色の強い大手新聞よりは、政治に対して中立的な経済新聞のほうにシフト。
日経シリーズが好調だったり時事通信などとにかく情報の量の多さを特徴とする?ものが好調であるのもそれを物語っている。

次に、無視できないインターネットでの情報検索技術の発達。
個人メディアであるホームページやブログで専門家が直接情報発信をし始めたことで、
メディア編集者のバイアスを介さず直接一次情報を受け取れる環境になった。

ただ専門家の全てが情報発信型ではなく、ブログやもの書きに慣れていない人達も
もちろんいる。なのでその人達とは別の媒体で接触をもつことになるが。

TV番組の多様性についてはスカパーやケーブルテレビでも数百の海外チャンネルが
手軽に導入できるようになってきている。ただ番組の数が多すぎ、
それらをマーケティングして分かりやすく紹介する機能が追いついていないのではないか。

と課題はあるのだが、世代交代が起こっていく中で若い世代も団塊世代も国の将来が危ないと意識を持ち始め、自分の身は自分で守るという脱依存体質が進んでいるのも同時に感じている。

自分の意識は常日頃の情報源を変えることで大きく変わる。

また情報を取捨選択してどれがより中立的・・・つまり結論が先にありきのこじ付け的な
情報なのではなく質の高い情報なのかを見極めて欲しいと思う。

一つ言えるのは、本当に専門分野で名前の知られた人物ほど
今の仮説を真実だと断定し主張することなく「賭けをしている」という。

まずは国内外の専門情報に触れ、ブログ等で質の高い情報発信をしている人物を見つけ、その人たちの参考としている情報源をピックアップして自ら直接情報を判断する体験を重ねるべきだ。

誰かと討論する、自分の身に置き換えて必ず質問を考える、自分なりの意見を必ず出す
というエクササイズを少しずつ取り入れていくと、やがてメディアに関して流される
ことなく、自分の考えを言葉で表現できるようになっていくのではないか。

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2009/04/19

活発でかわゆいタランドゥス君・・・脱走劇

7種類いる中で最近一番お気に入りが預かりもののコンゴ出身のタランドゥス君雄。
毎晩、がさがさがさがさ・・・・・一番音を立てているのも彼です。

たまに夜中に爆音が聞こえたかと思うと、それはオウゴンオニが箱の中でぶーんと飛んでぶつかった音だったりしますが。。。
だいたいいつも音を立てるのは大きくてツヤツヤしたタランドゥスのほう。

昨晩はその彼がペアリングに小さいケースに移しておいて置いたのですが、うっかり最後までぴっちり蓋をしていなかったらしく脱走してました。

脱走にすら気付いていなかったのですが、先ほど暗かった部屋に電気をつけたら変なところから物音が聞こえて。
ふと目を上げると

・・・・・・・

カーテンレールをお散歩だ。

Nec_0591
※ゴキブリではない。

ほんとの姿はこんな。

Nec_0592

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英語で訳す武道のココロ・・・google翻訳でふにゃふにゃ

武道でよく言われる注意点を、通訳するときあらかじめどういうかを調べてみたのですが。。。google翻訳でやったら笑えた。

腹を据える
中心をとる
間合いをとる

 ↓↓↓

Prepare for anything
Take heart
Take the timing

・・・ちょっと・・・違うんだよなぁ~~~
んで少し変えてみた。

剣を持って腹を据える
身体の中心をとる
相手との間合い(距離)をとる

 ↓↓↓

Lay in the stomach with a sword → やっぱり変???これだと「胃の中に置く」です。。
Take the center of the body
take a Timing with a (distance)

「腹を据える」があまりにひどいので他の言葉で言うと。。。
「身体の重心を低くする」→Lower center of gravity of the body →やっぱり違う
「腰を低くする」→Bend down →全く違う

・・・手っ取り早く low down あたりが妥当でしょうか?うーん、武術用語って難しい。。

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2009/04/17

思考に侵されていた感性(キャンベル本感想)

ジョゼフ・キャンベルの本「生きるよすがとしての神話」で共鳴した部分だが・・・。

ふと気付くと、自分の考え方の多くが、自分の普段の言葉遣い、それも多くが情緒を伴わないような、客観的で事象から一歩身を引いたような斜め視線で(主体性を伴わない)、一見理知的と見られるような分析的な話し方、そして平たく言うとおそらく外来の思考特に西洋的思考と思われるものが自分の普段の考え方や感じ方にまで根を下ろしてしまっていたんだなと気付く。

つまり細分化したり何かの枠に当てはめてみたり(カテゴライズ)とか自分の思考範囲に無理やり狭めて未知の知として受け取らずに機知の知として考えるクセのようなものだ。

「人は・・・あらゆる言葉は-もちろん言葉は思考や事物や名前や形だけに関わるものですから-人を誤り導くのみだということに気付くでしょう。
・・・どんな経験でも、言葉で他人に伝えることは不可能です。・・・おまけに思考や定義づけは、自分の経験を無効にしてしまうかもしれません。自分の経験として受け入れる前に、実体不明のものにしてしまう恐れがあるのです。例えば「今私が感じているのが恋というものかしら」「これは許されることなんだろうか」「これは便利だろうか」などと自問する場合を考えて御覧なさい。そう自問したとたんに経験の自然な勢いが弱まってしまいます。いったん定義された生活体験は過去に縛り付けられ、もはや未来に向かってほとばしることはありません。そしておそらく、自分の人生を意図や、重要性や、明確な意味づけ等々の枠の中に絶えず整理している人は、結局のところ、生命経験の実感を失ってしまったことに気付くでしょう。
そこで、禅の最初で最重要な目的は、私達の観念の網を破ることです。だから、ある人々は禅のことを「無心の哲学」と呼びます。欧米の心理療法の多くは、私達が最も必要とし求めているものは自己の生活の意味だと主張しています。一部の人々にとってそれは助けになるのかもしれません。しかし、それは知性を助けてくれるだけです。そして知性がその名前や、カテゴリーや、関係の認識や、意味の定義などを用いて人生に働きかけるとき、最も深遠なものはたちまち失われてしまいます。これに反して禅は、生命と生命感覚が意味より優先するという自覚を尊びます。生命に色んな名前をつけるのではなく、生命がどんどん育ってくれることを望むのです。こうしてあなたは自分が生きているところへ-あなたが名づけられるところではなく、あなたが在るところへ-連れ戻されます。
(「いきるよすがとしての神話」ジョーゼフ・キャンベル選書 第七章 禅より)」

キャンベルは西洋人でクリスチャン家庭に育っているが、いかにこういう「外国人」の東洋文化を見る視点から学んでいるかを気付く。

そして自らの文化の尊さを日本に住む自分がまだまだ気付くことができていないもどかしさがある。
いかに普段から「考えて」しまっているか、「感じる」ことを自分に禁じていたか。

どうしてこんなに感性が鈍っているんだろうと。いつのまに自分の内なる声をねじ曲げてきてしまったんだろうと。そうやって自分を責めてもしょうがないのだが、まぁ本当にキャンベルの著書は刺激に満ちています。

観音様は「音を観る」人だということですが、音を考えて解釈するのではなく、そのままを観る、ありのままを観る、自分が何枚もの既成概念のフィルターをかけて観ていたのを取り外し、色眼鏡を取り外していく。。。

ただ淡々と静かに「観る」。

人と話すときも、相手が大勢であっても。空気を読むとか気を見るということともつながってくる。瞑想とともに深めていこうと思うポイントです。

生きるよすがとしての神話 (キャンベル選集)
生きるよすがとしての神話 (キャンベル選集) Joseph Campbell 飛田 茂雄 武舎 るみ

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